京都梅小路公園にて開催いたします【相聞円坐@梅小路】のご案内第三弾です。

橋本久仁彦さんそして橋本悠さん、松岡弘子の案内の言葉です。
どうぞ御高覧ください m(_ _)m

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昨日は石切での「円坐の生と死」のクラスでした。
遠方から来て下さる方々の胸を借りて、自分の娘と息子が堂々と仕合う姿を見ることが出来ました。

僕がやがてこの世を去る時に、子どもたちに遺せるものは、僕が「共に生きた」と感じている仲間達とその関係そのものである、と思っています。

自分の大切な子どもたちに、「仲間」や「関係」を「遺す」というようなことができるのでしょうか?

「個人主義」という思想が世界的に猛威を振るう時代に、「自立」や「自己実現」や「本当の自分」というような、活きてはいない静止した思考と、それを「得る」ための方法としての「瞑想」や「ワークショップ」といった言葉をセットで見聞きしています。

大学での授業の時にも、学生や先生方から「○○瞑想」ということばを聞くことがあります。
いわく(自分)「自身」の、(自分)の「スペース」を大切にして、本当の(自分)自身のエネルギーを、(自分が)「見る」(自分が)「感じる」というような表現に、僕は戸惑いを覚えます。

彼らがその言葉を口にするとき、その文脈から、「仲間」や「人間関係」は不確かで変わってしまうものだ、他人に重きを置いたら結局は傷ついてしまう。他者は思い通りにはならない。だから自分を大切にし、本当の自分自身でありたい、ブレない、揺れない自分が欲しい、そのために瞑想をするのだ、というような思いを感じているからだと思います。

他者という存在=人間関係から身を引いて、より一人に、より楽になりたがっているかのようです。
僕は学生たちと、「てるぺん」という椅子の形の積木を積み上げて遊び、それから円坐と影舞をご一緒して、「存在する」とは、「生きる」とは、「一人になる」ということが不可能であるということである、と示します。

なぜなら、「我々」が即「人間関係」であるからです。
なぜなら、「私」が即「他者」であるからです。
我々がそのまま「社会」であり、「私の人生」は「他者との関わり」とともに初めて生まれ、「他者との関わり」とともに初めて消滅するからです。

ゆえにこの世界とこの人生においてもっとも重要で重大な案件は「他者」です。
「自分」はなくても困りません。しかし、他者がいなくては自分は存在すらできません。

僕にとって「瞑想」とは、「自分が」する何かではありません。
瞑想とは「他者の思い」のことです。なぜなら「この世」にはそれしかないから。
瞑想とはこの世界のことです。この世界が「他者の思い」でできているから。

この一点、この「逢阪の関」を越えて初めて、未二観は瞑想だとか、影舞は瞑想だ、円坐や辿りは瞑想だ、と表現することも可能かと思いますが、しかしもはや瞑想という言葉を用いる必要もありません。
瞑想する者はいないからです。

「この現実世界、すなわち他者を生きる」 という以外に付け足すものはありません。

外から見る限り、未二観は「何もせず、何も起こっていないもの」、影舞は「いつまでやっても分からないもの」、円坐は「愛と信頼のない人間関係のるつぼ、あるいは地獄」という判断で構わないと思います。正しく、地獄が僕のふる里であり職場です。

生駒石切に集うということは、円坐の生と死に立ち会うということです。それは敢えて愛と信頼のない人間関係を生きようとする「名乗り」であろうと思います。
対峙して仕合い、振れて、揺れて、倒れ、再び対峙して仕合う一途な思いは、外側に感じる「時間」ではなく、主体的に生きられた腹底の「時」となって実現し、「セイムページ」が起こります。その瞬間「人間関係の地獄」はそのままおのずから「愛と信頼」に転じます。
「地獄」がそのまま最高の景色であったという覚醒。
ゆえに誰かが用意してくれるような「愛と信頼」は必要ありません。
あえて「地獄」になった彼らこそが「愛」であり、彼らをおいて「信頼」に価する人間は他にいないからです。

その石切の稽古場で切磋琢磨する二人が、再び今度は京の町にて円坐を立ち上げます。

「相聞円坐」。

円坐衆が他者同士として、定められた時間の中で互いを辿り合うという事。
他者であるがゆえに、自分に対するよりも真剣に耳を傾けることを迫られるということ。
円坐という結界舞台の時が熟して往くにつれ、やがて自分が落ちてただありのまま「相手」を辿っているということ。
その刹那、相手は自分であり自分は相手であるということ。その道行きを「相聞円坐」と言う。

「相聞円坐@梅小路」の守人の一人、橋本悠は僕の息子です。
彼のご案内の文章の一言一句を誇らしく思います。
改めて彼が息子であることに驚きを感じています。
そして自分が彼の父親であることには、言葉もなくただ感謝して天を仰ぐのみです。

このたびの相聞円坐@梅小路の舞台成立を、心よりお祝いいたします。 

   生駒石切「円坐の生と死」守人   橋本久仁彦

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皆様

こんにちは。
円坐のご案内【相聞円坐 @梅小路 】です。

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松岡弘子 案内文
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皆様

梅が咲き始める頃、
京都梅小路公園の、
朱雀の庭を見渡せる緑の館の2階の茶室で、
令和二年二月九日(日)相聞円坐をひらきます。

梅小路公園は、新しい公園ですが、
懐かしい大切な思い出の場所です。

懐かしい面影が残っていて、
新鮮な風が、吹いています。
ご縁をお待ちしております。

ところで「継承」するというのは、
一体どういうことなのでしょうか。

それはその人みたいになることでも、
手元を見て技術を学ぶことでもなく、
仕事をする人の背中をずっと見て、最期まで見届け、
その人がいつか大切な場所を空けてくださった時に、
自分は唯自分の仕事をやりきると、
その人の、本来の「働き」が生まれ、
その人の働きが自分の中で発動しているような、
すでに、もうパスされているというのが、
本当の「継承」であるのではないか、
ということがわかってきました。

継承は、とても自分が揺れます。
誰もその事を教えてくれません。
なぜなら、当たり前の事だからです。

揺れたりせずに、
本当の姿を見せ合わないで、
なにも継承されることは、ないのではないでしょうか。

円坐舞台では、、
天と地で賑やかに事が興こったり、魂が鎮まっていくことがあります。
円坐舞台や影舞でのお辞儀は、決して社交や謝罪ではありません。
魂が地に鎮まってゆく土着の姿勢です。

それではご縁ある皆様のお越しを心よりお待ちしております。

くぅ 松岡弘子

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橋本悠氏 案内文
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皆様ご無沙汰しております。

2020年の1月が早くも終わろうとしています。
年始を迎えるたび、時間の流れが早くなるように感じます。

時間の流れもそうですが、先月人生初めて円坐守人兼主催をしたのに、今回でもう3回目です。
初めて守人をしたイブイブ円坐の後はもう暫くすることはないかなと思っていたのですが、予想に反して機会が多く巡ってくるのは有難い事だと思います。

梅小路公園は今回初めて訪れる場所で、結構広い公園なんだなぁと言うことくらいしかわからないですが、今回誘って下さったくぅにとって大事な場所だということなので、行くのが楽しみでもあります。

自分に何が出来るとか、他人に何を与えることができるなどとは思いません。
僕が持ち込めるのは自分自身の全身全霊なだけで、それでも自分は何もできないものだと考えています。
だからこそ、臆しながらも何処へでも行き誰とでも会うことができます。
円坐とはそう言うものだと思っているので、一見優しくはない場ですが、自分が傷つくのを承知で人と向かい合うことが最高の優しさだとも思うので、そこを捉えるならどこよりも優しい場になると考えます。

至らぬところばかりですが、当日はどうか宜しくお願いします。

橋本悠

< 相聞円坐 @梅小路 開催要項 >

◆ 日時 : 2020年2月9日(日)9:30〜16:30

◆ 場所 : 梅小路公園 緑の館 茶室2(京都市下京区観喜寺町56-3)

◇ 守人 : 松岡弘子・橋本悠

◇ 参加費 : 7,000円

◇ 昼食 : 
公園内には、京野菜レストラン・梅小路パークカフェ・市電カフェなどもあります。各自払いでお願いします。

◇ 申込み・お問い合わせ :
松岡弘子 soumon.enza@gmail.com
橋本悠 kagemai@au.com


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