みなさま

日々いかがお過ごしでしょうか。

わたしは晴れると土に種をまき、
雨が降ると家に入り本をならべて読んでいます。

鶯や雀などの鳥の声が近頃よく聞こえてきます。

「雨の降る日は、雀がよー鳴くんよ」
と言う祖父の言葉。
鶯が鳴けば「ほー、ほけきょ」としだれ桜の守人が歌います。

懐かしくも豊かな景色です。

いつもなぜか、
面影懐かしいその声と一緒に、
思い出すのは、
おじいちゃんの家の前の一面の蓮華畑の花や、
梶原の古民家の庭で見事に咲くしだれ桜です。

おじいちゃんの阿南の家の縁側には、
大きな昭和の古いステレオがあって、
叔父がクラシックレコードをかけてくれた時の、
縁側の奥に神棚があったのもよく覚えています。

梶原のしだれ桜の家の母屋の縁側から見える庭の景色と、
阿南の家の縁側から見えた庭とは、どこかで通じている、
そんな気がして。

今も昔も懐かしい、風が吹いています。


昨日、幼い頃の夢を見ました。
「そんなんしたら、おっちゃん死ぬで」
と言うと、叔父はにっこり笑うのです。
はっとしました。
「あ。そっか!死んでるからええんや」
なんか海で久しぶりに大笑いしました。

とてもリアルで懐かしい、
走馬灯のような映像でした。


ところで、住む主がいなくなると、家は、
刻々とさびれていくと言われていますが、
同時にふるさととなり風景にもなります。

もう無いからこそ有るという、
儚くも・・・明快な存在観は、
未二観の世界観でもあります。

人種や思想、価値観や宗教感をも越え、
人類共通の名残りの風景だと思います。


下記の言葉は、
五節句円坐~上巳の節句にしたためた、
円坐の案内文に、
再び最近加筆したものです。

「未二観 玉手箱 ~ 生と死のタイムカプセル」
あらためましてご案内を送らせていただきます m(_ _)m

もしよかったら、
どうぞご一読ください。
宜しくお願い申し上げます。

それでは、みなさま、どうぞ御身大切に。

・・・

近頃、
年々時の速さが早くなっています。

限られた時間を生きるという事は、
いつか死ぬということであります。

ところが、
「時」が「空間」に満ちてゆくということは、
自己と無がしっかり対峙していることであり、
同時に、無が自己に満ちて空であることです。

他者と自己は、全く一致しないからこそ、
一致しない者同志ふれることができます。

援助や接触という場合、
自己と他者が分かれていて、
自分があるからこそ成立します。

全人生まるごと、
己の様(さま)で出てきて、
相まみえないことには、
誰かにふれるどころか、
会うことすらできないと思います。

死ぬことは、
人生の終わりだという人もいますが、
わたしは違うと思います。

死ぬということより・・
ちゃんと死ねないということの方が、
生きられないことよりも重大な事だからです。

死ぬことは生きることです。

死ぬことと、生きることは、
一見違うことのようですが、
まさしく同じことだなあと、

  しみじみ、生と死の不思議を思ふ

令和の春の風景です。

松岡弘子


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・日時 打合せのうえ日程の調整をします
・場所 戸外で面談、もしくはお電話にて 
・内容 未二観(録音のみ・逐語記録の作成・レビュー等、打合せの上決めます)
・守人 松岡弘子
・費用 お問合せください。

*場所や費用など状況に応じてご相談ください

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